日記04

日記

部下からマネジメントを体系的に学びたいと相談を受けたので、アンドリュー・S・グローブの「HIGH OUTPUT MANAGEMENT」を読んだことないのに紹介した。良い本だったら(かいつまんで)内容を教えてくれと頼んでおいた。

いっぱしのビジネスパーソンみたいな顔をして東京のど真ん中で働いてるんだし、いい大人だし、ビジネス書もちゃんと読むぞ!というモードになることが僕にだってある。勉強を続けなければスキルも知識も陳腐化してしまうし、そういう時代遅れな年寄りをダサいと思ってもいるし。だから時々、やる気ある時にビジネス書を買うんだけれど、たいてい途中まで読んで放り出してしまう。

なにかを学ぶなら原理原則をしっかり抑えるべきだろうと買った、ドラッカーの「マネジメント」は文章がまわりくどくて1章の前半で投げ出したし、数年後に気を取り直して買った「マネジメントエッセンシャル版」は家で開いてさえいない。本を買っただけで勉強モチベーションが満たされてしまう。

ジム・コリンズ「ビジョナリー・カンパニー」も同僚に勧められて買ったものの、一章の途中までしか読めなかった。覚えているのは「ビジョナリーな企業ははたから見るとカルトに見える」ということくらい。これは確かにそうだ。大きな会社がオペレーションの卓抜性を維持するために「〇〇という会社で働いていること」が従業員のプライドになることほど効果的な手法はないだろう。従業員が自ら率先して教えを守り、伝播し、強化していく信者になってくれて、入信したい信者がたくさん応募してくるようになったら、しばらくその企業は強い。従業員の能力をフルに発揮させるためにも、従業員を定着させるためにも、(そして相対的に安い賃金で使うためにも)、カルト化はとても良い方法論だ。カルト化の魔法が醒めた時は悲劇だけれど。

長野慶太「部下は育てるな!取り替えろ‼︎」を買った記憶もある。マネジャーになって、部下の育成に頭を悩ましていた頃に買ったのだろう。ちゃんと読んだかどうか分からないし、内容も全然覚えてないが、部下を育てるなんて非効率なことしないで、ダメな奴は無理に育てようとせずに放出した方が効率的だってことが書いてるんだろう。これは確かに正しいんだけれど、人材の取り替えがしやすい恵まれた会社でしかできない方法論だよな。

部下はダメなら取り替えろという主張は一見冷たいように見えるが、実際は部下にも優しい施策だ。仕事で活躍できるかどうかは、その人の能力というよりも、仕事との相性に依るところが大きい。あとは上司や先輩の働き方や指導法との相性にも影響を受ける。だから僕は仕事が出来るかどうかはほぼ運だと思う。ただし、30歳くらいまでずっと不運な環境にいたら、その後幸運だった人との差を覆すことは難しくなる。能力を伸ばしやすい仕事が30歳まで不運だった人にはまわってこないからだ。

でも、ミドルマネジメントがマネジメントを体系的に学ぶためには「ビジョナリー・カンパニー」も「部下は育てるな!取り替えろ‼︎」もふさわしくない。「ビジョナリー・カンパニー」はそもそもミドルマネジメントの職掌を大きく超えるし(僕にすすめてきた同僚はなぜあの本を勧めてきたのだろう)、「部下は育てるな!取り替えろ‼︎」は恵まれた企業のマネジメントにしか適用できないし、そもそもマネジメントの全体像について書いた本でもなく、マネジメントの教育に効率の観点を持ち込んだだけの本(だと思う、覚えてないし、読んでないかもしれないから分からないけど)。

僕が読んだ(あるいは持っている)本の中に体系的なマネジメントの教科書はなかったから、ぼく自身のマネジメントの見取り図を共有してみた。そのさわりをここにも書いておく。

マネジメントは「不足したリソースを使ってなんとか成果を出す」スキル(厳密にいうとスキル体系)です。役職でも部下の有無でもなく、もちろん心意気でもなく、ただのスキルです。ただのスキルだから鍛えることも後天的に獲得することも可能なものです。

マネジャーは、文字通りマネジメントスキルを使って仕事をする人のことです。営業マンが営業力というスキルを使って仕事をするのと同じです。他のあらゆるスキル/職務と同じただの役割です。マネジメントって偉くもなんともないんです。

マネジメントスキルは管理職じゃなくても求められるスキルです。だって「不足したリソースを使ってなんとか成果を出す」なのですから。そして文字通り、マネジャーには結果を出す責任があります。マネジャーはなにがなんでも成果を出さなきゃダメな職務です。すべてはそこからしか始まりません。マネジャーはダメだった時に責任を取る役割ではありません。マネジャーが果たす結果責任を「ダメだった時の責任を取る人」と解釈しているマネジャーが時々いますが、あんなのは職務放棄です。もちろん最悪の場合には敗戦の責任を負うんですけど、結果を出すことを請け負ってるのであって、結果責任を負うのが仕事ではありません。結果出せない時に責任があるのは当たり前のことなので、キメ顔するところではありません。わざわざ改めてこんなことを強調するのは「責任は私が取る」という言葉を部下への丸投げの免罪符に使っている人が多いからです。あんなのはまともなマネジャーの仕事の仕方ではありません。

マネジャーの最初のステップは「不足したリソース」に了解すること、成果の定義を「正しく」定義することです。不足したリソースでなんとか絶対に成果を出すという前提への了解がはじめにあって、その次になって初めていろんなサブテーマ、ジャッジや心構えや育成法やモチベーションコントロールや管理手法などなど、が出てきます。正しい前提がない状態で、サブテーマだけこねくりまわしても意味がありません。それに前提をはっきり置くと、大半のサブテーマには自然と答えが出ます。その局面で使えるリソースと目標成果が

決まれば、必然的に達成手段は導き出されるからです。マイクロマネジメントか放任か?部下の育成は必要か?短期と長期のトレードオフはどう折り合いをつけるべきか?などなど前提から切り離してサブテーマだけこねくりまわしても意味がありません。それらの解は「状況による」からです。まとめると以下の通りです。

  1. リソースの定義:リソースは不足しているものと了解する
  2. 成果の定義:出すべき成果を正しく定義する
  3. リソースを使って成果を出すための方策を導き出す

このあとマネジメント職が持つべき素養に話は展開していくけど、省略。

最近は古い曲ばかりを聴いている。若い頃はやれベースがどうだ、音の鳴りがどうだと分かった風なことを一生懸命言ってきたけど、結局おれはポップスが好きです。

ジャンル名が分からなくて似た曲を効率よく探せないけど、たとえばB.J Thomasの「Raindrops Keep Fallin’ On My Head」とか。バカラックが好きなだけかな。音楽に魔法があると信じている音がして、とても良い。

「ハル・デヴィッドとバート・バカラックのコンビでヒットを量産」という定型句を使ったことさえあるような気がするけど、正直ハル・デヴィッドの歌詞なんてひとつも知らないな。改めて歌詞を読んでみたら「雨は全然止まないけど大丈夫、雨でブルーになっても僕を打ちのめすこともないし、もうすぐ幸せが迎えにやって来るはず、俺は自由だ、なにも心配知らない」みたいな能天気な歌詞だった。

こういう能天気さや未来を前向きなものとして扱っている作品の方が楽だ。日本社会全体が未来をシリアスかつ悲観的に扱っていることに疲れているのかもしれない。僕が能天気な時代の歌を聴いて楽をするのと日本や日本人を礼賛するテレビ番組でお茶を濁す人の精神構造は同じかもしれないな。

でも、時代や社会が変わって未来を盲目的に信用できなくなったからこそ、賢そうな顔をして悲観的なことを言うよりも、たとえアホそうに見えても明るい未来を語れる人の方が素敵だと思う。

ミツカン「くめ納豆秘伝金印ミニ」超小粒を食べた。納豆の味って結局タレちゃうんか?と思っていたが、やはり納豆はそれぞれ味の違いがあるかもしれない。くめ納豆とセブンプレミアムの納豆は明らかに味が違う、気がする。どう違うのかうまく言語化はできないのだが、くめ納豆の方が濃い?気がする。

今年に入って本をあまり読めていないと思っていたら、隙間時間を英語の勉強にあてているからだった。本当はまとまった空き時間をダラダラ浪費してるから、英語とトレードオフではないのだろうが、気持ち的には英語のせいだった。本を読む時間を削って英語の勉強をしているにも関わらず、英語力は全然あがっていない。いつまでも基礎的な中学英語につまづいている現実に、さすがに少し悲しくなる。

とりあえず「どんどん話すための瞬間英作文トレーニング」をちまちま続けている。時々僕が見ても違和感のある英文があるが、そんな細かいことは気にしない。ちなみに効果はまだない。

僕はとにかく甘いものに目がない。だからレストランパティシエへのリスペクトや憧れがたくさんある。レストラン・パティシエが経済的にも成功できる環境があってほしいなと思う。金銭や名誉だけが成功だと言うつもりはないが、やはりお金は大事だし、名誉を求めることだって自然なことだ。お金や名誉が得られるところに才能は集まる。レストラン・パティシエが成功できる社会なら、もっとおいしいデセールが食べられるという、極めて個人的な願望だが。

でもレストラン・パティシエってキャリアパスがいまいち見えない。料理人なら自分の店を持つとか、あるいは料理長として高級ホテルを仕切るとか。村上信夫氏みたいに帝国ホテルの専務取締役になるには時代が違うから難しいだろうけど、執行役員にはいまでもなれる。それが楽しさとリンクするかは別の話だけれど、少なくとも相応の報酬はもらえるんじゃないだろうか。ソムリエなら自分の店を持ってオーナーとして料理人を雇うこともできる。それはサービスと料理人の指揮命令系統が分かれているから可能なのではないか。レストラン・パティシエが自身のお店を開いて、シェフを雇って、そのシェフの指揮命令下でレストラン・パティシエが働くって建てつけがややこし過ぎるし、その店が星を取った場合、やはりそのプライズはシェフに紐付くもんな。

アシェットデセールを一本で独立する人が少しずつ増えてきて嬉しい限りだし、そういう人がお店を続けられる環境が整って欲しいけど、まだマーケットサイズが小さすぎる。まだメインの成功ルートは料理もできるパティシエさんがレストランをオープンするか、パティスリーとレストラン・パティシエ両方の経験がある人が、カウンターでデセールも提供するパティスリーをオープンするか、どっちかなのかな。

おいしくて、見た目も楽しいアシェットデセールを食べる機会がたくさんあったら、なんでも良いんだけれど。そんなことを常日頃考えているので、中村樹里子「レストラン・パティシエールの働き方」を読み始めた。中村さんはカンテサンスがあった場所にオープンした元TIRPSEのシェフ・パティシエール。何度かデセールコースを食べに行ったな。いまは目黒のkabiの二階でお菓子を提供されています。

残念ながら旅行が心ときめくものでなくなってきている。世界が少しずつ均質化して、きっとそれによる良いこともたくさんあるんだけれど、他所が無くなっていく寂しさがどうしてもある。

最近は絵本をよく読んでいるが、ぼくが物語に求めるものは、ほとんど全部絵本で満たされている気がする。

どんどん読書日記じゃなくなっている。もはやただの日記だ。読書記録にしろ日記にしろ、もっと瞬間の記録のようなもの、作為性を伴わない記録装置のような記録の仕方で(そんなことは不可能なのだけれど)記述できれば良いなと思う。衆人監視装置と自動速記システムの登場が待たれる(待たれない)。

中世の文化が騎士道とキリスト教との折り合いをつけられなかったのとちょうど同じように、現代の世界は、自由と平等との折り合いをつけられずにいる。だが、これは欠陥ではない。このような矛盾はあらゆる人間文化につきものの、不可分の要素なのだ。それどころか、それは文化の原動力であり、私たちの種の創造性と活力の根源でもある。対立する二つの音が同時に演奏されたときに楽曲がいやでも進展する場合があるのと同じで、思考や概念や価値観の不協和音が起こると、私たちは考え、再評価し、批判することを余儀なくされる。調和ばかりでは、はっとさせられることがない。

ユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史(上)」(p.205

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Posted by tjknt