読書日記03

日記

最近、納豆にタレやカラシを入れずに食べている。これまでにあづま食品「有機そだちひきわり納豆」ミツカン「くめ納豆国産大粒」を食べて、今日はセブンプレミアム「北海道産大豆小粒納豆」を食べた。製造元はあづま食品。セブンイレブンのやつは心なしかクセがない気がするが、正直違いがわからない。納豆の味の違いって結局タレの違いなんじゃないかな。あと、納豆はタレを入れた方がおいしい。このまま続けてれば、納豆本来の味の違いが分かるようになるのかしら。

ぱらぱらと歌集をながめる。ある人のことを思い出す。

「はい、これ」
「ん?
「はい」
「なにこれ?」
「好きかなと思って」
「なにが?」
「本。よく読んでるやろ」
「ああ」
「だから、はいこれ」
「なにこれ?」
「短歌」
「は?」
「短歌、知らんの?」
「季語の?」
「それ俳句」
「ああ」
「これ貸したげる」
「は?」
「だから、この本。貸したげる」

差し出されたのは一冊の歌集。作者も出版社もまったく知らない。そもそもぼくは短歌なんて授業でしか読んだことないし、歌人も俵万智くらいしか知らない。なんだよサラダ記念日って。これが僕がはじめて歌集を手に取った瞬間。

その頃、ぼくは休み時間になるとイヤホンを耳につっこんで本を読むか机につっぷして寝たフリをしていた。その当時は友だちともうまくいってなくて、だからって別の奴らとつるむこともしたくなくて、一人でいることに平気な顔をするのに必死だった。おれは誰にも興味がないし、誰もおれに構わないでくれ、というアピール。誰に向けて。世界に向けて。ぼく以外のすべてに向けて。誰かがぼくを見破らないように。ぼく自身を隠すために。

その頃のぼくは、自分がうまく世界を騙せていると信じきっていたので、その人がバリケードが存在しないかのように、ぼくに関わってきたことにたいそうびっくりしていたのだが、ビックリしていることを気づかれるわけにもいかないので、よりいっそう平静を装った。

「読んだ?」
「ん?まあ」
「どうやった?」
「まあまあ」
「なによ、まあまあって。まあ良いや。で、どれが好きだった?」

迷惑そうなフリをして、でも質問にはちゃんと最低限だけ答え続けた。

「奇遇やねえ」
「は?」
「私もこの歌が好きやわ」
「へえ」
「こういうのが好きなんやねえ」
「は?」
「ふーん。意外やなあ。でもわからんでもないなあ」
「なにがやねん」
「ふふ。ロマンチスト、なんやねえと思って。」
「なんやねんそれ、そんなんちゃうわ」
「好きやろ?」
「は?」
「好きになったやろ?」
「は?」
「短歌」
「ああ、まあ」
「まあ、やって」
「なんやねん」
「べつにー」

たったそれだけ。恋にも友情にもならなかった、とりとめのない話を思い描く。パラパラとページをめくる。あの時指差した歌だ。声に出して読んでみる。

ねむらないただ一本の樹となってあなたのワンピースに実を落とす
笹井宏之「ひとさらい」p.82

もしあなたに、ひとやすみする日陰が必要なら、ぼくは木かげを作る木になろう。もしあなたが鳥だったなら、あなたが羽を休める木になろう。鳥になったあなたがついばみ落とした実が、木かげで休むあなたのワンピースにぽとりと落ちる、そんな時間の中に生きる木でありたい。そんな時間があったら良いのに。そんな時間が続けば良いのに。ぼくはそんな気持ちを乗せて、この歌を指差したのかもしれない。

どこにもない、どこかにあったかもしれない、記憶の話。

最近、クロワッサンや食パンを買う量が増えた。もともとパンは好きだったが、バルミューダのトースターを買って以来、パンを食べるのがより楽しくなった。食は人の生活を分かりやすく豊かにするから、良いな。このトースターでパンを焼いている誰かを街で偶然見かけたら、開発者はどんな顔をするだろう。

今日はメゾンカイザーとポールのクロワッサンを買った。メゾンカイザーのクロワッサンはミルキーで、ポールのクロワッサンは塩気が強かった。どっちが好きかは好みの問題か。

最近は本当にダラダラと生きていて、もし人生の価値が生産性で決まるのだとしたら、僕の人生はかなりどうしようもない方に分類されると思う。有意義な人生なんてものがあるのだとしたら、それは僕と反対の時間の使い方をしている人の元にあるのだろう。

僕は少しずつ怠惰になっている。そのことに抱く危機感も年々減ってきている。これは自分の未来に期待しなくて済む年齢になってきたということなのではないだろうか。自分の人生にこんなもんかと思えているとでも言いましょうか。それはとても心地よくもあり、同時にすごく後ろめたくもある。もっとまっすぐな欲をもって、向上心と自分を律する強い意志をもって、人生を切り開いていった方が良いのかもしれない。そうやって、いまの自分よりもっと良くなって、より多く、より高価な、よりレアな自分になることを目指した方が迷いは少なくて良いのかもしれない。

よく生きようとか、人生の意味とかそんなことを気にし始めるから、人生はどんどんおかしな方向にねじ曲がっていくのだと思う。きっとそんなこと考えないでいられる方が幸せだし、純粋だろう。でも、よく生きることを一度見据えてしまって、そこから目を背けるのは本当に良いことなんだろうか。元からないこととなくなることは、違うんじゃないのかな。

人生を(人生という言葉はそれだけでもうどこか詠嘆的な響をもっていて、僕は好かないのですが)とにかく人生を人生というような形で意識すること、それがもはや惑いの始めではないでしょうか。

谷川俊太郎「愛のパンセ」p.010

「愛のパンセ」は谷川俊太郎氏が26歳の頃に出た本だ。ひとまわりも年下の若者が書いた人生論を読んで、そうだそうだその通りだと膝を打つのは、若き日の谷川俊太郎氏の類まれな洞察力とぼけっと生きてる僕の差異による問題であって、時代の変化などは関係がない。

立川談春の芸歴35年記念公演「玉響」に行ってきた。aikoが出演する日。aikoは歌がうまかった。やっぱりファンの熱狂が苦手だった。そういうものからなるたけ距離をとって生きてきたけど、時々間違ってそういう熱狂の渦の中に入っていってしまう。その度に、勝手になにかに絶望して帰ってくる。この「なにか」について、多分そこそこ言語化できるつもりでいるけど、あえて書かない。

帰りにヴィロンでクロワッサンを買ってきて食べた。特定のどこかを強調しないクロワッサンだと思った。それはつまり小麦粉の味を楽しむということかもしれなかった。

VIRONはフランスの小麦粉メーカーVIRONの味に衝撃を受けた日本人が、日本でVIRONという名前のパン屋をオープンし、それがいまではフランスに逆輸入されているそうだ。いつだって冒険は勇気ある主人公のもとにのみ訪れるのだな。

日記

Posted by tjknt