読書日記01

2019/8/7日記

これは読書日記です。読んだ本についての、あるいは読んだ本を中心とした日記です。

僕は記憶力が悪い。牛乳を買いに行ったのに牛乳を買い忘れて帰ってくるみたいなことは日常茶飯事なくらいには記憶力が悪い。本を読んでも、演劇や映画を観ても、おいしいものを食べても、気づけばどんどん忘れてしまう。僕のiPhone Xには食べ物の写真がたくさん入っているのですが、時に食べたことさえ忘れてしまっているものがあって、自分の記憶力のなさにガッカリする。誰かが覚えられないのは心が動いてないからだ、みたいなことを言ってたのを思い出して、感受性のなさを突きつけられているようで、さらに悲しい気持ちになる。感受性の強い人に憧れがある。あります。

ないものを嘆いていても仕方がないので、記録に頼る。いまやノートPCのハードディスクでさえテラバイトの容量を持っている。そのうち僕たちは手のひらにペタバイトのデータを持ち歩き、さらにそれがエクサバイト、ゼタバイトと進化して、いつかはヨタバイト(ヨビバイト)に到達するのだろう。進化に進化を遂げると与太になったり予備になったりするんだな、みたいなしょうもないことが頭をよぎって、やっぱり悲しい気持ちになる。

ブリア・サヴァラン「美味礼讃」の冒頭に「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言い当ててみせよう。」と書いてあるが、どんな本を読んでいるかは、食べているものと同等かそれ以上に、自分がどんな人であるかの表明だろう。SEO対策をするようなサイトでもないし、ぼくの知り合いしか読まないだろうし、なんならぼくの知り合いさえあんまり読まない気がするけど、それでもどんな本を読んでるかを公開することには、厨房やバックヤードを公開する恥ずかしさがある。人間の厨房やバックヤードがどこにあるのかわからないし、料理人が厨房を公開するのが恥ずかしいのかどうかもしらないけど。

これから続くかどうかわからない読書日記を始めます。始めてみます。

地方再生に興味がわいて、木下斉「まちで闘う方法論」篠原匡「神山プロジェクト」木下斉「稼ぐまちが地方を変える」を読んだ。木下斉「まちで闘う方法論」はハウトゥー本でビジネス書だった。地方が補助金に頼らずに自分たちで稼がなければ継続性がないという木下斉さんの主張をどこかで読んで、共感して取り寄せたことを思い出したが、かといって木下斉さんの本への興味はビジネス書へのそれとは違ったので、勝手にガッカリした。3冊をパラパラと読んでる途中で、自分の地方再生への興味が他人事の正義に過ぎないことに気づいたので、読むのを辞めた。

これから日本が活力を持ち続けるためには地方が元気になる必要があるとか、東京一極集中ではいまの豊かさも持続できないとか、そういう危機感みたいなものがある、気がしたけど、他人事で評論家的な態度から来る興味だった。自分がコミットもせずに、他人事にもっともそうな論理で正しそうなことを言うのは好きではない。そういう人がいるのは一向に構わないし、社会にそういう役割を担う人も必要なんだと思うけど、ぼく自身がそういう振る舞いをするのは極力避けたい。これはぼくの「自分はそういうことをついやってしまいがちな人間だ」という自己認識から来ており、だからこそ丁寧に自重しないといけないという気持ちをもっているということ、だと思う。

長谷川祐也「靴磨きの本」を読んだ。そろそろ一生履くことを視野に入れて靴を買っても良い気がして、まず手始めに持っている靴のメンテナンスを始めた。基本的なメンテナンス方法は後輩に教わっていたが、改めてちゃんとメンテナンスの方法を勉強しておこうと思って。復習になったし、内側はアルコール綿や除菌シートで拭くのが良いという新たな知識を得た。

最近は毎日仕事から帰ってきたら、その日履いた革靴にシューツリーを入れて、馬毛ブラシで軽くブラッシングをして埃を落としている。本当は履いた日はシューツリーを入れない方が良いらしいのだが、面倒なので帰ってきたらすぐにシューツリーを入れてしまっている。ブラッシングの時間は1分ほどだが、自分がちゃんとした人になった気がする。履いている靴もキレイに保たれるので気持ちが良い。

畑に行く時にはトリッカーズのカントリーブーツを履いていて、これも結構気に入っている。元はスニーカーを履いて行っていたが、スニーカーだと繊維の隙間に土が入って汚れてしまうし、汚れが落ちにくい。革靴だと土埃もブラッシングだけで落ちる。これでトリッカーズのエイジングがいい感じに進んでくれると、なお嬉しい。1回や2回履いたところで何が変わるわけでもないのだが、つい毎回エイジングが進んでないか確認してしまう。

一生履く靴を選ぶって、なんとなく、でもはっきりと、人生があと何十年も続くことを前提にしている。これはとても不遜なことだと思うけど、いつ死んでもおかしくないと思うことよりも、ずっと簡単だ。僕にとっては。

4321 光の中
カウントダウンの鐘の中
三途の川へ向かう中
いろんな人と話した

『彼女の笑顔を見ていたかった』
『爆弾が降ってきた』
Jリーガーになりたかった』
ぼくはどうだった?

『孫の顔が見たかった』
『祖国に帰りたかった』
『タクヤに会えるかな?
『あの人野菜とってるかしら?
『妹が助かって良かった』
『どうして私なの?
『今夜指輪を渡すはずだった』
『君は?』・・・
ぼくはどうだった?
ぼくはどうだった?

口ロロ「TONIGHT

暑い。涼しかった時は野菜が育たへんやんけと文句を垂れていたけど、いざ暑くなると暑さがうっとうしい。

仕事から帰ってくると味噌汁と時々はちょっとした一品(今日は豚肉とピーマンとチンゲンサイの塩麹炒め)をアホほど汗をかきながら作って、さらにアホほど汗をかきながらガツガツ食う。無心で食う。そして水筒の残りの麦茶をゴクゴクと一気飲みして、ぷはーと言う。生きている。感じがする。

シニアに向けたビジネスにほんのちょびっと関わっていて、プロジェクトメンバー的な人から勧められて阪本節郎・原田曜平「世代論の教科書」阪本節郎「シニアマーケティングはなぜうまくいかないのか」阪本節郎「50歳を超えたらもう年を取らない46の法則」をパラパラと読みはじめた。シニア世代の方々の「俺たちを年寄り扱いするんじゃねえ!」とか「たしかに老いは感じるけど、それを見ず知らずの他人に言われたくないわ」という気持ちにうまく寄り添ってあげましょう、ってことが書いてある本なんだと思う、多分。

自分もどんどん老人に向かっている。生きているとは老いていくということでもある。自分の延長線上に老いや死をイメージするのは難しい。昔よりずっと歳をとった今でさえ。シニアビジネスが他人事になってしまうのは、そういう老いをイメージできないことと関係があるのかな。それともただ観察力にかからだけなのかしら。

本谷有希子が久々に作演出をするというのでチケットの予約を試みるも、すでに追加公演も含めた全公演のチケットが完売していた。残念。まわりに演劇仲間がいるわけじゃないので、一度劇場に行かなくなると情報がとんと入ってこなくなる。Twitterも見なくなったので余計に情報に疎くなっている。

Twitterはやめたけど、Twitterが嫌いなわけでもないし、アンチSNSとかデジタルデトックスとかそういうナチュラリスト志向でもない。いろいろ情報も入ってくるし便利だけど、ただなんか、Twitterは時々ちょっと疲れる。もともとTwitterにつぶやきを書き込むのもあんまり得意じゃないし。ある情報の塊からどこまで削っても意味が変わらずに伝わるのか、どこまでは書いておかなければ意味が変わって理解されてしまうのか、そのさじ加減が正直あんまりよくわからないし、そういう状況で140文字と向き合うと、考えるのが面倒になってまって、もう別につぶやかないでも良いやってなる。Twitterとの相性が悪いんだと思う。使いこなせない。こうやってダラダラと垂れ流しのように書いてる方が性に合う。読む人のコスパは悪いのだろうけど、どうせ物好きしか読まないだろう。

しかし文章のコスパってなんだ。文字数あたり、あるいは読む所要時間あたりの受け取る情報量が多い、あるいは心が動く距離が長いものがコスパが良い文章ってことになりそうだ。コスパという概念が各方面に拡張されている現代は、人々が完全に消費者になったということなんだろう。消費者は賢くならなければならない、さあみんなでかしこい消費者を目指そうというシュプレヒコールは、ぼったくりとか悪徳商法から身を守る自衛手段だったはずだけれど、いまではとっくに自衛を超えて、と言うよりははなから損得感情によって駆動される利益獲得競争と結びついている。損をしたくない気持ちは人間の本能みたいなものだし、当然ぼくだってなるべく損はしたくないから理解はできるけれども、コスパの追求が強迫観念すらまとって肥大している様はちょっと異様だよなと思う。インターネット以降のなんでも情報が手に入る(と信じられている)世界の在り方と、日本社会全体を覆う先行きへの漠然とした不安という今のご時世が、人々のコスパ教への改宗を後押ししているのだろう。私だけが損するのは嫌だ、賢く資産を自衛しなくては将来が不安だ、コスパ教の教えは他者への厳しさにスムーズに移行する。経済合理性の追求と新自由主義くらいには相性が良い。

昨日読み始めた「世代論の教科書」と「シニアマーケティングはなぜうまくいかないのか」と「50歳を超えたらもう年を取らない46の法則」はもう飽きてしまって読む気がしない。「世代論の教科書」は団塊世代が20歳前後の1970年に「anan」が1971年頃に「nonno」が創刊した、その数年前の1967年にツイッギーが来日してミニスカートブームになったと書いてあって、そういうのを読むのは楽しいはずなんだけれど、この本達は腰を据えて読む気にならないまま、早くもその辺にうっちゃられている。そういえばこの本に、いまのシニア世代はジーパンが似合う大人になりたいと思っていると書いてあって、その真偽はともかく、ジーパンにこだわるのってもはやダサいことになってるよなと思った。ジーンズを育てるとか、ビンテージジーンズがどうこうとか、もはやおっさんとダサい人しか言ってない気がする。そう思うと時間というものは気づけば意外と経ってて、変わってないと思っていても意外と色々なことが変わっているのかもしれないな。

流行、しかも表層的なもののみを偏重するがゆえに、作る側が意識している・いないを問わず、また分野や嗜好を問わず、これらの役割が稚拙にしか表現されていない靴が非常に多く出回ってしまっています。つまり、カッコをつけているだけで履きづらい・使いづらい靴なのですが、たとえ価格が高いものや世間でよく知られたラグジュアリーブランドのものであったとしても、その種の靴がないとは限らないのが困ったところです。
また、靴を履く側にしても、前述した観点で深く思索する場を得られていないばかりに、文字通り場当たり的に靴を無頓着に買ってしまったり、ファッション雑誌などから出てくる大量の情報を鵜呑みにしただけの状態でそれを選んでいるケースが、残念ながら特に我が国での男性では多々見られます。一見正反対に思える双方ですが、うわべだけの「判断」しかできておらず、自らの身体や心理それに周囲の環境まで靴の意味や整合性を溶かし切れずにそれを身に着けている点では、実はどちらも共通です。日本人男性は以前に比べお洒落になったとしばしば言われるものの、少なくとも足元に関してはまだ何かが足らず、またこれはあまり指摘されませんが、一見完璧でありながら、何かが決定的にズレている場合も結構あるのです。

飯野高広「紳士靴を嗜む」p45

多分この人の言ってることは正しいのだろう。合ってない靴を履くと健康にもよくないしね。でもこうやって、愛好家は正しさと愛と善意で、ジャンルを殺していくのかもしれないな。

ある対象の歴史や伝統をおさえその上を歩く正統も、無頓着にいまの感性で楽しむ自由も、知らないがゆえの再生産も、そのすべての楽しみ方を同等に使いこなせて、対象を多面的かつ包括的に愛せたら、もっと楽しいのかもしれないけど、若者のバンドを聞いては「しょうもない」と言ってきた僕には共存の仕方がわからない。

2019/8/7日記

Posted by tjknt