絵本

くもりときどきミートボール

1日空から食べものが降ってくる町。町の人は空から降ってくる食べ物の恵みにあずかって幸せに暮らしていましたが、ある日、町に降ってくる食べ物が巨大化し、人を押しつぶしたり、建物を壊し始めるという話。

食べ物が降ってくる町なら、生活の心配は今よりずっと減るんじゃないかな。生活が嫌いだ。生活が生きることをままならなくさせていると思う。そして生活の大半は食べることだ。食べものを心配しなくてよい世界があったなら、人は生活から解放されて、もっと自由になれるんじゃないだろうか。

食べ物が降ってきたらよいなあ、という空想から順を追って話を展開していくこういうくだらない話がとても好きです。

くだらなくてどうでも良い妄想が、切実でリアルな現実よりも上位だなんて思わない。むしろ切実でリアルな現実の勢力が広がれば広がるほど、何の役にも立たないくだらない空想が重要になってくるんじゃないだろうか。

くもりときどきミートボール
文:ジュディ・バレット
絵:ロン・バレット
訳:青山南

絵本

百年の家

色々な時代を超えて、色々な人間が住んだ家を中心とした100年史。その間に戦争があったり、日々の営みの力強さがあったり、、、という感じの絵本だったが、僕が読みたいのはそういう現実をトレースしたり、現実を改めて見つめるためのきっかけみたいな物語じゃないから、読者じゃなかった。

作:J・パトリック・ルイス
絵:ロベルト・インノチェンティ
訳:長田弘

絵本

ヨシタケシンスケ「もうぬげない」

とてもかわいくておもしろいお話。ヨシタケシンスケの絵本は子どもを子ども扱いしすぎないところが良いのだと思う。定義しようとしてもしきれないという逆説で個人の特別さをあぶりだした「ぼくのニセモノをつくるには」もそうだった様に思う。もちろん子どもに分かるイメージや語彙しか使えないという制約はあるんだけれど、変に子どもの目線におりすぎてないのが良い。

特に僕が好きだったのが次の一節。なんだかとてもロマンチックである。

それに、ぼくみたいなこは ほかにも いるかもしれないよ。
きっと すぐ みつけられるよね。
ぜったい なかよくなれると おもう。

絵本

アーノルド・ノーベル「いろいろへんないろのはじまり」

モノトーンの世界に生きた魔法使いが、色を発明して世界を彩るお話。魔法使いが色を作っているところの文章が、ひびきかな? リズムかな? なんか分からないけど妙に好き。

あるひのこと、まほうつかいは これを ちょっぴり、
あれを ちょっぴり かきまぜました。
すると、つぼのそこに みょうなものが できました。
「うん、これは おもしろそうだ。
もっと たくさん つくってみよう。」

あるひのこと、まほうつかいは これを ちょっぴり、
あれを ちょっぴり かきまぜました。
つぼのそこに みたことないものが できました。
「うん、これは いける。
もっと たくさん つくってみよう。」

あるひのこと、まほうつかいは これを ちょっぴり、
あれを ちょっぴり かきまぜました。
いままでと ちがうものが
つぼのそこに みえました。
「うん、なかなか いいぞ。
もっと たくさん つくってみよう。」

2019/8/7絵本

ヨシタケシンスケ「こねてのばして」

なんのことやらよくわからないけど、とにかくほのぼのして平和的だった。

2019/8/7絵本

「かたつむりみつけた」

ほぼ全部絵だった。絵本の絵ってどれくらい物語から独立して存在できるんだろうな。物語と無関係な絵を並べるのでもなく、物語に従属するのでもなく、物語と並走している絵本、なんてことは可能なのかな。

絵本

ヨシタケシンスケ「ぼくのニセモノを作るには」

ぼくのニセモノを作って、ぼくがやりたくないことはニセモノにやってもらおう。ロボットにちゃんとぼくのニセモノが務まるように、ぼくはロボットにぼくについて教えることになる。ロボットからの質問を通して、ぼくはぼくという存在を要素分解していく。しかしながら、ぼくをどれだけ要素分解したところでぼくの存在を説明したことにはならない。

ほかの誰かとそんなに変わらないはずのぼくが、どれだけ説明したって、どれだけ分解したって、ニセモノの僕を作る(ぼくを複製できる)だけの定義ができない。なにをもって、ぼくはぼくなのか、それは本人であるぼく自身にもよくわからなくなってくる。ぼくがぼくなのは確かなはずなのに、どうすればぼくはぼくをちゃんと説明して、ぼくのニセモノを作れるのか。

そんなぼくという存在の曖昧さを浮かび上がらせることを通して、ぼくの(そしてあなたの)存在がいかに特別であるのかということを描き出していく。ぼくがぼくであるということはこんなにも当たり前なのに、どんなに要素分解したって、どんなにわけたって説明しきれなくて、説明を尽くしてなんとかロボットに理解させたぼくのクローンは、ぼくにまったく擬態できない。

大きな要素にわけたって浮かび上がって来ない、圧倒的にたくさんの細かな差異の集合体がぼくで、それは他の誰かと似てるようで全く似てなくて、ぼくはたくさんのバリエーションと可能性とイメージの集合体で、小さなようで大きくて。そんな風にぼくの絶対性を軽やかに肯定していく一冊。

なのかどうかはわからないけど、絵がポップで楽しいです。

2019/8/7絵本

五味太郎「のでのでので」

とびあがった。とびあがったのではたをサッとあげた。サッとあげたのではなびにひをつけた。つけたのでシュルシュルパッとなった(パラシュート花火)。なったのでなったよとはなした。と物語は「ので」の連結により進んでいく。進んで行くにつれて「ので」という因果の結び目がどんどん解けていくような感覚に陥る。僕たちが信じているほとんどすべての「ので」は実はもっと分解可能なでたらめな連結でしかないんじゃないか、そんな気がしてくる。「のでのでので」は愚直なまでにのでを繰り返すことによって、自明のものに軽やかに疑義を投げかける。

そして同時に(そして反対に)、ここで「のでのでので」がしていることは、「ので」の連携に僕たちを因果から解き放つ手さばきでもって、あらゆる理由(何かをやる動機とか僕らがここにいる存在理由とか)を肯定している。どんな理由だって「ので」ひとつで連結してしまえるのであれば、それが他人あるいは自分にはどれだけでたらめに見えたとしたって、それさえも軽やかに「ので」と肯定してしまうことが可能だということだ。ここで五味太郎は生きることすべてを肯定している。

なんてことはどこにも書いていない、ので、みんな読むと、良い。

絵本

谷川俊太郎、和田誠「がいこつ」

めっちゃ良い。

とても良い詩なので全文をここに写したいけど、多分そういうことはしない方が良いのだと思うので、やめておく。

2019/7/29絵本

「りんごのきにこぶたがなったら」

ファンタジーというか現実には起こりえないことが起こる絵本だと思って読んだら、ぐうたらな旦那の言い訳を元に実際にこぶたをりんごの木に括りつけてしまう奥様の話だった。逆に怖いが、求めているものとはだいぶ違った。

翻訳は佐藤凉子。