日記

部下からマネジメントを体系的に学びたいと相談を受けたので、アンドリュー・S・グローブの「HIGH OUTPUT MANAGEMENT」を読んだことないのに紹介した。良い本だったら(かいつまんで)内容を教えてくれと頼んでおいた。

いっぱしのビジネスパーソンみたいな顔をして東京のど真ん中で働いてるんだし、いい大人だし、ビジネス書もちゃんと読むぞ!というモードになることが僕にだってある。勉強を続けなければスキルも知識も陳腐化してしまうし、そういう時代遅れな年寄りをダサいと思ってもいるし。だから時々、やる気ある時にビジネス書を買うんだけれど、たいてい途中まで読んで放り出してしまう。

なにかを学ぶなら原理原則をしっかり抑えるべきだろうと買った、ドラッカーの「マネジメント」は文章がまわりくどくて1章の前半で投げ出したし、数年後に気を取り直して買った「マネジメントエッセンシャル版」は家で開いてさえいない。本を買っただけで勉強モチベーションが満たされてしまう。

ジム・コリンズ「ビジョナリー・カンパニー」も同僚に勧められて買ったものの、一章の途中までしか読めなかった。覚えているのは「ビジョナリーな企業ははたから見るとカルトに見える」ということくらい。これは確かにそうだ。大きな会社がオペレーションの卓抜性を維持するために「〇〇という会社で働いていること」が従業員のプライドになることほど効果的な手法はないだろう。従業員が自ら率先して教えを守り、伝播し、強化していく信者になってくれて、入信したい信者がたくさん応募してくるようになったら、しばらくその企業は強い。従業員の能力をフルに発揮させるためにも、従業員を定着させるためにも、(そして相対的に安い賃金で使うためにも)、カルト化はとても良い方法論だ。カルト化の魔法が醒めた時は悲劇だけれど。

長野慶太「部下は育てるな!取り替えろ‼︎」を買った記憶もある。マネジャーになって、部下の育成に頭を悩ましていた頃に買ったのだろう。ちゃんと読んだかどうか分からないし、内容も全然覚えてないが、部下を育てるなんて非効率なことしないで、ダメな奴は無理に育てようとせずに放出した方が効率的だってことが書いてるんだろう。これは確かに正しいんだけれど、人材の取り替えがしやすい恵まれた会社でしかできない方法論だよな。

部下はダメなら取り替えろという主張は一見冷たいように見えるが、実際は部下にも優しい施策だ。仕事で活躍できるかどうかは、その人の能力というよりも、仕事との相性に依るところが大きい。あとは上司や先輩の働き方や指導法との相性にも影響を受ける。だから僕は仕事が出来るかどうかはほぼ運だと思う。ただし、30歳くらいまでずっと不運な環境にいたら、その後幸運だった人との差を覆すことは難しくなる。能力を伸ばしやすい仕事が30歳まで不運だった人にはまわってこないからだ。

でも、ミドルマネジメントがマネジメントを体系的に学ぶためには「ビジョナリー・カンパニー」も「部下は育てるな!取り替えろ‼︎」もふさわしくない。「ビジョナリー・カンパニー」はそもそもミドルマネジメントの職掌を大きく超えるし(僕にすすめてきた同僚はなぜあの本を勧めてきたのだろう)、「部下は育てるな!取り替えろ‼︎」は恵まれた企業のマネジメントにしか適用できないし、そもそもマネジメントの全体像について書いた本でもなく、マネジメントの教育に効率の観点を持ち込んだだけの本(だと思う、覚えてないし、読んでないかもしれないから分からないけど)。

僕が読んだ(あるいは持っている)本の中に体系的なマネジメントの教科書はなかったから、ぼく自身のマネジメントの見取り図を共有してみた。そのさわりをここにも書いておく。

マネジメントは「不足したリソースを使ってなんとか成果を出す」スキル(厳密にいうとスキル体系)です。役職でも部下の有無でもなく、もちろん心意気でもなく、ただのスキルです。ただのスキルだから鍛えることも後天的に獲得することも可能なものです。

マネジャーは、文字通りマネジメントスキルを使って仕事をする人のことです。営業マンが営業力というスキルを使って仕事をするのと同じです。他のあらゆるスキル/職務と同じただの役割です。マネジメントって偉くもなんともないんです。

マネジメントスキルは管理職じゃなくても求められるスキルです。だって「不足したリソースを使ってなんとか成果を出す」なのですから。そして文字通り、マネジャーには結果を出す責任があります。マネジャーはなにがなんでも成果を出さなきゃダメな職務です。すべてはそこからしか始まりません。マネジャーはダメだった時に責任を取る役割ではありません。マネジャーが果たす結果責任を「ダメだった時の責任を取る人」と解釈しているマネジャーが時々いますが、あんなのは職務放棄です。もちろん最悪の場合には敗戦の責任を負うんですけど、結果を出すことを請け負ってるのであって、結果責任を負うのが仕事ではありません。結果出せない時に責任があるのは当たり前のことなので、キメ顔するところではありません。わざわざ改めてこんなことを強調するのは「責任は私が取る」という言葉を部下への丸投げの免罪符に使っている人が多いからです。あんなのはまともなマネジャーの仕事の仕方ではありません。

マネジャーの最初のステップは「不足したリソース」に了解すること、成果の定義を「正しく」定義することです。不足したリソースでなんとか絶対に成果を出すという前提への了解がはじめにあって、その次になって初めていろんなサブテーマ、ジャッジや心構えや育成法やモチベーションコントロールや管理手法などなど、が出てきます。正しい前提がない状態で、サブテーマだけこねくりまわしても意味がありません。それに前提をはっきり置くと、大半のサブテーマには自然と答えが出ます。その局面で使えるリソースと目標成果が

決まれば、必然的に達成手段は導き出されるからです。マイクロマネジメントか放任か?部下の育成は必要か?短期と長期のトレードオフはどう折り合いをつけるべきか?などなど前提から切り離してサブテーマだけこねくりまわしても意味がありません。それらの解は「状況による」からです。まとめると以下の通りです。

  1. リソースの定義:リソースは不足しているものと了解する
  2. 成果の定義:出すべき成果を正しく定義する
  3. リソースを使って成果を出すための方策を導き出す

このあとマネジメント職が持つべき素養に話は展開していくけど、省略。

最近は古い曲ばかりを聴いている。若い頃はやれベースがどうだ、音の鳴りがどうだと分かった風なことを一生懸命言ってきたけど、結局おれはポップスが好きです。

ジャンル名が分からなくて似た曲を効率よく探せないけど、たとえばB.J Thomasの「Raindrops Keep Fallin’ On My Head」とか。バカラックが好きなだけかな。音楽に魔法があると信じている音がして、とても良い。

「ハル・デヴィッドとバート・バカラックのコンビでヒットを量産」という定型句を使ったことさえあるような気がするけど、正直ハル・デヴィッドの歌詞なんてひとつも知らないな。改めて歌詞を読んでみたら「雨は全然止まないけど大丈夫、雨でブルーになっても僕を打ちのめすこともないし、もうすぐ幸せが迎えにやって来るはず、俺は自由だ、なにも心配知らない」みたいな能天気な歌詞だった。

こういう能天気さや未来を前向きなものとして扱っている作品の方が楽だ。日本社会全体が未来をシリアスかつ悲観的に扱っていることに疲れているのかもしれない。僕が能天気な時代の歌を聴いて楽をするのと日本や日本人を礼賛するテレビ番組でお茶を濁す人の精神構造は同じかもしれないな。

でも、時代や社会が変わって未来を盲目的に信用できなくなったからこそ、賢そうな顔をして悲観的なことを言うよりも、たとえアホそうに見えても明るい未来を語れる人の方が素敵だと思う。

ミツカン「くめ納豆秘伝金印ミニ」超小粒を食べた。納豆の味って結局タレちゃうんか?と思っていたが、やはり納豆はそれぞれ味の違いがあるかもしれない。くめ納豆とセブンプレミアムの納豆は明らかに味が違う、気がする。どう違うのかうまく言語化はできないのだが、くめ納豆の方が濃い?気がする。

今年に入って本をあまり読めていないと思っていたら、隙間時間を英語の勉強にあてているからだった。本当はまとまった空き時間をダラダラ浪費してるから、英語とトレードオフではないのだろうが、気持ち的には英語のせいだった。本を読む時間を削って英語の勉強をしているにも関わらず、英語力は全然あがっていない。いつまでも基礎的な中学英語につまづいている現実に、さすがに少し悲しくなる。

とりあえず「どんどん話すための瞬間英作文トレーニング」をちまちま続けている。時々僕が見ても違和感のある英文があるが、そんな細かいことは気にしない。ちなみに効果はまだない。

僕はとにかく甘いものに目がない。だからレストランパティシエへのリスペクトや憧れがたくさんある。レストラン・パティシエが経済的にも成功できる環境があってほしいなと思う。金銭や名誉だけが成功だと言うつもりはないが、やはりお金は大事だし、名誉を求めることだって自然なことだ。お金や名誉が得られるところに才能は集まる。レストラン・パティシエが成功できる社会なら、もっとおいしいデセールが食べられるという、極めて個人的な願望だが。

でもレストラン・パティシエってキャリアパスがいまいち見えない。料理人なら自分の店を持つとか、あるいは料理長として高級ホテルを仕切るとか。村上信夫氏みたいに帝国ホテルの専務取締役になるには時代が違うから難しいだろうけど、執行役員にはいまでもなれる。それが楽しさとリンクするかは別の話だけれど、少なくとも相応の報酬はもらえるんじゃないだろうか。ソムリエなら自分の店を持ってオーナーとして料理人を雇うこともできる。それはサービスと料理人の指揮命令系統が分かれているから可能なのではないか。レストラン・パティシエが自身のお店を開いて、シェフを雇って、そのシェフの指揮命令下でレストラン・パティシエが働くって建てつけがややこし過ぎるし、その店が星を取った場合、やはりそのプライズはシェフに紐付くもんな。

アシェットデセールを一本で独立する人が少しずつ増えてきて嬉しい限りだし、そういう人がお店を続けられる環境が整って欲しいけど、まだマーケットサイズが小さすぎる。まだメインの成功ルートは料理もできるパティシエさんがレストランをオープンするか、パティスリーとレストラン・パティシエ両方の経験がある人が、カウンターでデセールも提供するパティスリーをオープンするか、どっちかなのかな。

おいしくて、見た目も楽しいアシェットデセールを食べる機会がたくさんあったら、なんでも良いんだけれど。そんなことを常日頃考えているので、中村樹里子「レストラン・パティシエールの働き方」を読み始めた。中村さんはカンテサンスがあった場所にオープンした元TIRPSEのシェフ・パティシエール。何度かデセールコースを食べに行ったな。いまは目黒のkabiの二階でお菓子を提供されています。

残念ながら旅行が心ときめくものでなくなってきている。世界が少しずつ均質化して、きっとそれによる良いこともたくさんあるんだけれど、他所が無くなっていく寂しさがどうしてもある。

最近は絵本をよく読んでいるが、ぼくが物語に求めるものは、ほとんど全部絵本で満たされている気がする。

どんどん読書日記じゃなくなっている。もはやただの日記だ。読書記録にしろ日記にしろ、もっと瞬間の記録のようなもの、作為性を伴わない記録装置のような記録の仕方で(そんなことは不可能なのだけれど)記述できれば良いなと思う。衆人監視装置と自動速記システムの登場が待たれる(待たれない)。

中世の文化が騎士道とキリスト教との折り合いをつけられなかったのとちょうど同じように、現代の世界は、自由と平等との折り合いをつけられずにいる。だが、これは欠陥ではない。このような矛盾はあらゆる人間文化につきものの、不可分の要素なのだ。それどころか、それは文化の原動力であり、私たちの種の創造性と活力の根源でもある。対立する二つの音が同時に演奏されたときに楽曲がいやでも進展する場合があるのと同じで、思考や概念や価値観の不協和音が起こると、私たちは考え、再評価し、批判することを余儀なくされる。調和ばかりでは、はっとさせられることがない。

ユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史(上)」(p.205

日記

最近、納豆にタレやカラシを入れずに食べている。これまでにあづま食品「有機そだちひきわり納豆」ミツカン「くめ納豆国産大粒」を食べて、今日はセブンプレミアム「北海道産大豆小粒納豆」を食べた。製造元はあづま食品。セブンイレブンのやつは心なしかクセがない気がするが、正直違いがわからない。納豆の味の違いって結局タレの違いなんじゃないかな。あと、納豆はタレを入れた方がおいしい。このまま続けてれば、納豆本来の味の違いが分かるようになるのかしら。

ぱらぱらと歌集をながめる。ある人のことを思い出す。

「はい、これ」
「ん?
「はい」
「なにこれ?」
「好きかなと思って」
「なにが?」
「本。よく読んでるやろ」
「ああ」
「だから、はいこれ」
「なにこれ?」
「短歌」
「は?」
「短歌、知らんの?」
「季語の?」
「それ俳句」
「ああ」
「これ貸したげる」
「は?」
「だから、この本。貸したげる」

差し出されたのは一冊の歌集。作者も出版社もまったく知らない。そもそもぼくは短歌なんて授業でしか読んだことないし、歌人も俵万智くらいしか知らない。なんだよサラダ記念日って。これが僕がはじめて歌集を手に取った瞬間。

その頃、ぼくは休み時間になるとイヤホンを耳につっこんで本を読むか机につっぷして寝たフリをしていた。その当時は友だちともうまくいってなくて、だからって別の奴らとつるむこともしたくなくて、一人でいることに平気な顔をするのに必死だった。おれは誰にも興味がないし、誰もおれに構わないでくれ、というアピール。誰に向けて。世界に向けて。ぼく以外のすべてに向けて。誰かがぼくを見破らないように。ぼく自身を隠すために。

その頃のぼくは、自分がうまく世界を騙せていると信じきっていたので、その人がバリケードが存在しないかのように、ぼくに関わってきたことにたいそうびっくりしていたのだが、ビックリしていることを気づかれるわけにもいかないので、よりいっそう平静を装った。

「読んだ?」
「ん?まあ」
「どうやった?」
「まあまあ」
「なによ、まあまあって。まあ良いや。で、どれが好きだった?」

迷惑そうなフリをして、でも質問にはちゃんと最低限だけ答え続けた。

「奇遇やねえ」
「は?」
「私もこの歌が好きやわ」
「へえ」
「こういうのが好きなんやねえ」
「は?」
「ふーん。意外やなあ。でもわからんでもないなあ」
「なにがやねん」
「ふふ。ロマンチスト、なんやねえと思って。」
「なんやねんそれ、そんなんちゃうわ」
「好きやろ?」
「は?」
「好きになったやろ?」
「は?」
「短歌」
「ああ、まあ」
「まあ、やって」
「なんやねん」
「べつにー」

たったそれだけ。恋にも友情にもならなかった、とりとめのない話を思い描く。パラパラとページをめくる。あの時指差した歌だ。声に出して読んでみる。

ねむらないただ一本の樹となってあなたのワンピースに実を落とす
笹井宏之「ひとさらい」p.82

もしあなたに、ひとやすみする日陰が必要なら、ぼくは木かげを作る木になろう。もしあなたが鳥だったなら、あなたが羽を休める木になろう。鳥になったあなたがついばみ落とした実が、木かげで休むあなたのワンピースにぽとりと落ちる、そんな時間の中に生きる木でありたい。そんな時間があったら良いのに。そんな時間が続けば良いのに。ぼくはそんな気持ちを乗せて、この歌を指差したのかもしれない。

どこにもない、どこかにあったかもしれない、記憶の話。

最近、クロワッサンや食パンを買う量が増えた。もともとパンは好きだったが、バルミューダのトースターを買って以来、パンを食べるのがより楽しくなった。食は人の生活を分かりやすく豊かにするから、良いな。このトースターでパンを焼いている誰かを街で偶然見かけたら、開発者はどんな顔をするだろう。

今日はメゾンカイザーとポールのクロワッサンを買った。メゾンカイザーのクロワッサンはミルキーで、ポールのクロワッサンは塩気が強かった。どっちが好きかは好みの問題か。

最近は本当にダラダラと生きていて、もし人生の価値が生産性で決まるのだとしたら、僕の人生はかなりどうしようもない方に分類されると思う。有意義な人生なんてものがあるのだとしたら、それは僕と反対の時間の使い方をしている人の元にあるのだろう。

僕は少しずつ怠惰になっている。そのことに抱く危機感も年々減ってきている。これは自分の未来に期待しなくて済む年齢になってきたということなのではないだろうか。自分の人生にこんなもんかと思えているとでも言いましょうか。それはとても心地よくもあり、同時にすごく後ろめたくもある。もっとまっすぐな欲をもって、向上心と自分を律する強い意志をもって、人生を切り開いていった方が良いのかもしれない。そうやって、いまの自分よりもっと良くなって、より多く、より高価な、よりレアな自分になることを目指した方が迷いは少なくて良いのかもしれない。

よく生きようとか、人生の意味とかそんなことを気にし始めるから、人生はどんどんおかしな方向にねじ曲がっていくのだと思う。きっとそんなこと考えないでいられる方が幸せだし、純粋だろう。でも、よく生きることを一度見据えてしまって、そこから目を背けるのは本当に良いことなんだろうか。元からないこととなくなることは、違うんじゃないのかな。

人生を(人生という言葉はそれだけでもうどこか詠嘆的な響をもっていて、僕は好かないのですが)とにかく人生を人生というような形で意識すること、それがもはや惑いの始めではないでしょうか。

谷川俊太郎「愛のパンセ」p.010

「愛のパンセ」は谷川俊太郎氏が26歳の頃に出た本だ。ひとまわりも年下の若者が書いた人生論を読んで、そうだそうだその通りだと膝を打つのは、若き日の谷川俊太郎氏の類まれな洞察力とぼけっと生きてる僕の差異による問題であって、時代の変化などは関係がない。

立川談春の芸歴35年記念公演「玉響」に行ってきた。aikoが出演する日。aikoは歌がうまかった。やっぱりファンの熱狂が苦手だった。そういうものからなるたけ距離をとって生きてきたけど、時々間違ってそういう熱狂の渦の中に入っていってしまう。その度に、勝手になにかに絶望して帰ってくる。この「なにか」について、多分そこそこ言語化できるつもりでいるけど、あえて書かない。

帰りにヴィロンでクロワッサンを買ってきて食べた。特定のどこかを強調しないクロワッサンだと思った。それはつまり小麦粉の味を楽しむということかもしれなかった。

VIRONはフランスの小麦粉メーカーVIRONの味に衝撃を受けた日本人が、日本でVIRONという名前のパン屋をオープンし、それがいまではフランスに逆輸入されているそうだ。いつだって冒険は勇気ある主人公のもとにのみ訪れるのだな。

2019/8/23日記

小林美佳「性犯罪被害にあうということ」を読む。悲痛。理解しきれそうもない。せめてどうにかそのまま受け取れたら良いのに。

日本に生まれ育った日本国籍の黄色人種の男性の健常者の大卒のヘテロである僕は、多分この国においてはマジョリティあるいは強者で、差別の対象になったことも個を虐げられる経験をしたことも、ない。

被害者になったこともなければ、想像力もないから、差別を受けている人や被害にあった人たちの置かれている境遇や、彼らの抱えている気持ちや痛みが、本当のところよくわからない。論理的なアプローチで理解を試みることや、人並みの同情や悲しみを覚えることはあるけど、やっぱりどこまでも他人事で、リアリティがない。だってぼく自身は体験してないし、当事者になったことないんだから。

毎日をぼーっと生きているぼくは、実際に恐怖に晒されたり、恐怖と薄皮一枚のところで生きている人たちがいる、ということさえ忘れてしまっている。何もできなくても、どうすべきかも分からなくても、本当は「いない」ことにしてはいけない、というのが正しいのだろう。でも、ぼくにはそれさえできない。目の届く範囲に目に見える形で存在しないものは、すぐにぼくの世界からいなくなってしまう。

「足のない人に『ちゃんと両足で歩きなさい』って言う?」
「言うわけないでしょ」
「なんで?」
「だって、見ればわかるじゃん!」
「なんで目に見えないことは分かろうとしないの?」
「だって、見えないもん。嘘つけるでしょ!分かんない!」

小林美佳「性犯罪被害にあうということ」p.102

珍しく朝はやくに目が覚めて、さらに珍しいことになぜか目覚めもよくて、奇跡的に布団から出るのに努力を必要としない1日の始まり。牛乳をたっぷり入れたコーヒーとヨーグルトを食べて、雑然と積まれた本の山から一冊を取り出し、読み始める。しばらくすると眠気に襲われる。ゆらゆらとお布団に逆戻りしてまどろみに帰っていく。改めて目が覚めたらお腹が空いていて、でも家には食べ物がなかったので、お昼ご飯を食べに出かける。お店にはドウダンツツジが飾られている。春に白い花をつけて、夏に葉をつけて、秋になると紅葉します。その後、落葉します。今日はとても穏やかな日です。こんな光景はこれまでにも何度もあった気もするし、はじめての光景かもしれない。今日の日もじきに記憶から消え去り、なかったことになる。でも、人生の妙味は、こんな消えゆく時間にこそ含まれているのかもしれないな、と思った。

畑で育てていた枝豆を根っこから引っこ抜いたままプロポーズする時の花束みたいに抱えて、電車に乗って家まで持ち帰って、ブチブチと茎から実の部分をひきちぎって、軽く洗って塩もみしてすこし置いて、沸騰したお湯で数分ゆがく。新鮮な枝豆はおいしい、気がする。枝豆は鮮度が落ちやすい野菜で、農家さんはお湯を沸かしてから収穫に行くと言われている。そんなエピソードが甘みを足しているのかもしれないけれど。

「もし、きょう枝豆をたべなくて、こないだ、ふたりで枝豆たべたことが、じんせいでたった一回のことだったとする。そしたら、じんせいで一回しかなかったって、気づくかな。」
ぼくは、いったけど、あたまが、こんがらがって、まさに、らるらるら、ってかんじになってた。かけがえのない、一回しかないことが、じんせいにはむすうにあって、それに気づくのは、くりかえしたときだとしたら、それってどういうことなんだ?
「ねえ、もしかして」
きみは、とつぜん、ひらめいたように、いった。「しおが、ちがうくない?」
「え」
ぼくは、いった。「ああ、そうか。しおが、あたらしいんだ。ちょっといい岩塩を買ったんだった。」
「ほうらー。だから、あじがちがうんだ。」
きみは、とくいそうにわらった。
そのかおを見て、ぼくは、ふってわいたように、おもった。
たくさん、くりかえそう。
いちどきりのことを見つけるために。
たのしいことも、くるしいことも。人生がつづくかぎり、ほんとうのくりかえしなんてものはないんだから。

斉藤倫「ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集」p.60-62

2019/8/7日記

これは読書日記です。読んだ本についての、あるいは読んだ本を中心とした日記です。

僕は記憶力が悪い。牛乳を買いに行ったのに牛乳を買い忘れて帰ってくるみたいなことは日常茶飯事なくらいには記憶力が悪い。本を読んでも、演劇や映画を観ても、おいしいものを食べても、気づけばどんどん忘れてしまう。僕のiPhone Xには食べ物の写真がたくさん入っているのですが、時に食べたことさえ忘れてしまっているものがあって、自分の記憶力のなさにガッカリする。誰かが覚えられないのは心が動いてないからだ、みたいなことを言ってたのを思い出して、感受性のなさを突きつけられているようで、さらに悲しい気持ちになる。感受性の強い人に憧れがある。あります。

ないものを嘆いていても仕方がないので、記録に頼る。いまやノートPCのハードディスクでさえテラバイトの容量を持っている。そのうち僕たちは手のひらにペタバイトのデータを持ち歩き、さらにそれがエクサバイト、ゼタバイトと進化して、いつかはヨタバイト(ヨビバイト)に到達するのだろう。進化に進化を遂げると与太になったり予備になったりするんだな、みたいなしょうもないことが頭をよぎって、やっぱり悲しい気持ちになる。

ブリア・サヴァラン「美味礼讃」の冒頭に「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言い当ててみせよう。」と書いてあるが、どんな本を読んでいるかは、食べているものと同等かそれ以上に、自分がどんな人であるかの表明だろう。SEO対策をするようなサイトでもないし、ぼくの知り合いしか読まないだろうし、なんならぼくの知り合いさえあんまり読まない気がするけど、それでもどんな本を読んでるかを公開することには、厨房やバックヤードを公開する恥ずかしさがある。人間の厨房やバックヤードがどこにあるのかわからないし、料理人が厨房を公開するのが恥ずかしいのかどうかもしらないけど。

これから続くかどうかわからない読書日記を始めます。始めてみます。

地方再生に興味がわいて、木下斉「まちで闘う方法論」篠原匡「神山プロジェクト」木下斉「稼ぐまちが地方を変える」を読んだ。木下斉「まちで闘う方法論」はハウトゥー本でビジネス書だった。地方が補助金に頼らずに自分たちで稼がなければ継続性がないという木下斉さんの主張をどこかで読んで、共感して取り寄せたことを思い出したが、かといって木下斉さんの本への興味はビジネス書へのそれとは違ったので、勝手にガッカリした。3冊をパラパラと読んでる途中で、自分の地方再生への興味が他人事の正義に過ぎないことに気づいたので、読むのを辞めた。

これから日本が活力を持ち続けるためには地方が元気になる必要があるとか、東京一極集中ではいまの豊かさも持続できないとか、そういう危機感みたいなものがある、気がしたけど、他人事で評論家的な態度から来る興味だった。自分がコミットもせずに、他人事にもっともそうな論理で正しそうなことを言うのは好きではない。そういう人がいるのは一向に構わないし、社会にそういう役割を担う人も必要なんだと思うけど、ぼく自身がそういう振る舞いをするのは極力避けたい。これはぼくの「自分はそういうことをついやってしまいがちな人間だ」という自己認識から来ており、だからこそ丁寧に自重しないといけないという気持ちをもっているということ、だと思う。

長谷川祐也「靴磨きの本」を読んだ。そろそろ一生履くことを視野に入れて靴を買っても良い気がして、まず手始めに持っている靴のメンテナンスを始めた。基本的なメンテナンス方法は後輩に教わっていたが、改めてちゃんとメンテナンスの方法を勉強しておこうと思って。復習になったし、内側はアルコール綿や除菌シートで拭くのが良いという新たな知識を得た。

最近は毎日仕事から帰ってきたら、その日履いた革靴にシューツリーを入れて、馬毛ブラシで軽くブラッシングをして埃を落としている。本当は履いた日はシューツリーを入れない方が良いらしいのだが、面倒なので帰ってきたらすぐにシューツリーを入れてしまっている。ブラッシングの時間は1分ほどだが、自分がちゃんとした人になった気がする。履いている靴もキレイに保たれるので気持ちが良い。

畑に行く時にはトリッカーズのカントリーブーツを履いていて、これも結構気に入っている。元はスニーカーを履いて行っていたが、スニーカーだと繊維の隙間に土が入って汚れてしまうし、汚れが落ちにくい。革靴だと土埃もブラッシングだけで落ちる。これでトリッカーズのエイジングがいい感じに進んでくれると、なお嬉しい。1回や2回履いたところで何が変わるわけでもないのだが、つい毎回エイジングが進んでないか確認してしまう。

一生履く靴を選ぶって、なんとなく、でもはっきりと、人生があと何十年も続くことを前提にしている。これはとても不遜なことだと思うけど、いつ死んでもおかしくないと思うことよりも、ずっと簡単だ。僕にとっては。

4321 光の中
カウントダウンの鐘の中
三途の川へ向かう中
いろんな人と話した

『彼女の笑顔を見ていたかった』
『爆弾が降ってきた』
Jリーガーになりたかった』
ぼくはどうだった?

『孫の顔が見たかった』
『祖国に帰りたかった』
『タクヤに会えるかな?
『あの人野菜とってるかしら?
『妹が助かって良かった』
『どうして私なの?
『今夜指輪を渡すはずだった』
『君は?』・・・
ぼくはどうだった?
ぼくはどうだった?

口ロロ「TONIGHT

暑い。涼しかった時は野菜が育たへんやんけと文句を垂れていたけど、いざ暑くなると暑さがうっとうしい。

仕事から帰ってくると味噌汁と時々はちょっとした一品(今日は豚肉とピーマンとチンゲンサイの塩麹炒め)をアホほど汗をかきながら作って、さらにアホほど汗をかきながらガツガツ食う。無心で食う。そして水筒の残りの麦茶をゴクゴクと一気飲みして、ぷはーと言う。生きている。感じがする。

シニアに向けたビジネスにほんのちょびっと関わっていて、プロジェクトメンバー的な人から勧められて阪本節郎・原田曜平「世代論の教科書」阪本節郎「シニアマーケティングはなぜうまくいかないのか」阪本節郎「50歳を超えたらもう年を取らない46の法則」をパラパラと読みはじめた。シニア世代の方々の「俺たちを年寄り扱いするんじゃねえ!」とか「たしかに老いは感じるけど、それを見ず知らずの他人に言われたくないわ」という気持ちにうまく寄り添ってあげましょう、ってことが書いてある本なんだと思う、多分。

自分もどんどん老人に向かっている。生きているとは老いていくということでもある。自分の延長線上に老いや死をイメージするのは難しい。昔よりずっと歳をとった今でさえ。シニアビジネスが他人事になってしまうのは、そういう老いをイメージできないことと関係があるのかな。それともただ観察力にかからだけなのかしら。

本谷有希子が久々に作演出をするというのでチケットの予約を試みるも、すでに追加公演も含めた全公演のチケットが完売していた。残念。まわりに演劇仲間がいるわけじゃないので、一度劇場に行かなくなると情報がとんと入ってこなくなる。Twitterも見なくなったので余計に情報に疎くなっている。

Twitterはやめたけど、Twitterが嫌いなわけでもないし、アンチSNSとかデジタルデトックスとかそういうナチュラリスト志向でもない。いろいろ情報も入ってくるし便利だけど、ただなんか、Twitterは時々ちょっと疲れる。もともとTwitterにつぶやきを書き込むのもあんまり得意じゃないし。ある情報の塊からどこまで削っても意味が変わらずに伝わるのか、どこまでは書いておかなければ意味が変わって理解されてしまうのか、そのさじ加減が正直あんまりよくわからないし、そういう状況で140文字と向き合うと、考えるのが面倒になってまって、もう別につぶやかないでも良いやってなる。Twitterとの相性が悪いんだと思う。使いこなせない。こうやってダラダラと垂れ流しのように書いてる方が性に合う。読む人のコスパは悪いのだろうけど、どうせ物好きしか読まないだろう。

しかし文章のコスパってなんだ。文字数あたり、あるいは読む所要時間あたりの受け取る情報量が多い、あるいは心が動く距離が長いものがコスパが良い文章ってことになりそうだ。コスパという概念が各方面に拡張されている現代は、人々が完全に消費者になったということなんだろう。消費者は賢くならなければならない、さあみんなでかしこい消費者を目指そうというシュプレヒコールは、ぼったくりとか悪徳商法から身を守る自衛手段だったはずだけれど、いまではとっくに自衛を超えて、と言うよりははなから損得感情によって駆動される利益獲得競争と結びついている。損をしたくない気持ちは人間の本能みたいなものだし、当然ぼくだってなるべく損はしたくないから理解はできるけれども、コスパの追求が強迫観念すらまとって肥大している様はちょっと異様だよなと思う。インターネット以降のなんでも情報が手に入る(と信じられている)世界の在り方と、日本社会全体を覆う先行きへの漠然とした不安という今のご時世が、人々のコスパ教への改宗を後押ししているのだろう。私だけが損するのは嫌だ、賢く資産を自衛しなくては将来が不安だ、コスパ教の教えは他者への厳しさにスムーズに移行する。経済合理性の追求と新自由主義くらいには相性が良い。

昨日読み始めた「世代論の教科書」と「シニアマーケティングはなぜうまくいかないのか」と「50歳を超えたらもう年を取らない46の法則」はもう飽きてしまって読む気がしない。「世代論の教科書」は団塊世代が20歳前後の1970年に「anan」が1971年頃に「nonno」が創刊した、その数年前の1967年にツイッギーが来日してミニスカートブームになったと書いてあって、そういうのを読むのは楽しいはずなんだけれど、この本達は腰を据えて読む気にならないまま、早くもその辺にうっちゃられている。そういえばこの本に、いまのシニア世代はジーパンが似合う大人になりたいと思っていると書いてあって、その真偽はともかく、ジーパンにこだわるのってもはやダサいことになってるよなと思った。ジーンズを育てるとか、ビンテージジーンズがどうこうとか、もはやおっさんとダサい人しか言ってない気がする。そう思うと時間というものは気づけば意外と経ってて、変わってないと思っていても意外と色々なことが変わっているのかもしれないな。

流行、しかも表層的なもののみを偏重するがゆえに、作る側が意識している・いないを問わず、また分野や嗜好を問わず、これらの役割が稚拙にしか表現されていない靴が非常に多く出回ってしまっています。つまり、カッコをつけているだけで履きづらい・使いづらい靴なのですが、たとえ価格が高いものや世間でよく知られたラグジュアリーブランドのものであったとしても、その種の靴がないとは限らないのが困ったところです。
また、靴を履く側にしても、前述した観点で深く思索する場を得られていないばかりに、文字通り場当たり的に靴を無頓着に買ってしまったり、ファッション雑誌などから出てくる大量の情報を鵜呑みにしただけの状態でそれを選んでいるケースが、残念ながら特に我が国での男性では多々見られます。一見正反対に思える双方ですが、うわべだけの「判断」しかできておらず、自らの身体や心理それに周囲の環境まで靴の意味や整合性を溶かし切れずにそれを身に着けている点では、実はどちらも共通です。日本人男性は以前に比べお洒落になったとしばしば言われるものの、少なくとも足元に関してはまだ何かが足らず、またこれはあまり指摘されませんが、一見完璧でありながら、何かが決定的にズレている場合も結構あるのです。

飯野高広「紳士靴を嗜む」p45

多分この人の言ってることは正しいのだろう。合ってない靴を履くと健康にもよくないしね。でもこうやって、愛好家は正しさと愛と善意で、ジャンルを殺していくのかもしれないな。

ある対象の歴史や伝統をおさえその上を歩く正統も、無頓着にいまの感性で楽しむ自由も、知らないがゆえの再生産も、そのすべての楽しみ方を同等に使いこなせて、対象を多面的かつ包括的に愛せたら、もっと楽しいのかもしれないけど、若者のバンドを聞いては「しょうもない」と言ってきた僕には共存の仕方がわからない。